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オレは群れるのが嫌いだ。

でも、集団に属すれば、他人と関われば、楽しいことも辛いこともある。
楽しいことがあるならば、辛いことがあっても我慢して居続けることができる。
しかし、どんなに楽しいことがあっても、辛いことが我慢できる範囲を超えたら。
やめてしまえばいい。

「辛いことは楽しいことでは相殺されない」
そう言って合唱団をやめていった先輩に対して
「どうして?僕たちを見捨てていくの?みんなあなたが好きなのに(ノ_;)」
と嘆いたこともあったが。
責任があっても。慕ってくる人がいても。
辛すぎたら、自分が壊れてしまうから。
あの人は、限界だったんだと思う。
私たちの知らない、知ろうともしなかった辛さをいっぱいかかえて。

先日、お世話になっているチャットTRPGの部屋でちょっとした事件があった。
新しくやってきた人をおもてなし、質問したり決まり事を教えたりして、
遊ぶキャラクターを作ってもらった後。
そのキャラクターシートを見たみんなから、待ったが入った。
何に対して待ったが入ったのかはこの話の趣旨からは外れてしまうので、
後ほど別に述べるとして。
多数の人から「これってダメなんじゃない?」という指摘を受け。
「でもルールブックにはダメって書いてないし」と食い下がり。
食い下がるもんだからこっちもいろいろ理由をつけてダメだと思うと語り。
やがてその人は、「ここは自分には合わないようです」と出て行ってしまった。
すると、しつこく「ダメでしょう」と言っていた人も、自分が悪かったんだと
罪を背負って出て行ってしまった。
その場は、ああいう手合いにはおひきとりいただいてよかったということで
一致したものの、後味の悪さが残った。

自分は数年前、地元の合唱団に属していた。
私の歌は声量がなく声質も幼く、音程の正確さだけがとりえだった。
だから歌う時は音程の正確さに何よりも気を配って。

合唱は複数のメロディーが織りなすハーモニー。
それは、音程が狂っていていは美しくない騒音。
美しくなければ、中で歌っていても楽しくない。
何も、1ヘルツのズレも許さないというわけではない。
そんなん私だって聞き取れない。
美しく聞こえる程度に、音程を合わせてほしいと。
そう願って、歌詞に感情移入するよりも前にまず美しいハーモニーを目指して。
「なんか音低いですよ」「ピアノの音に合わせて歌い始めたのに最後には一音下がってますよ」
などと控えめな主張を繰り返すたびに、うざそうな顔をされた。

団の側から見れば、私が無断欠席や遅刻を連発したり練習場でムクレたりする
迷惑行為が目立ったための「退団勧告」であったが。
私は音程に無頓着な練習が楽しくなかったから練習場でムクレていたのだ。
楽しくないからやめたのだ。自分から。

たくさんの人間が集まるところでは、みんなが同じ意見であるとは限らない。
いや、あるはずがない。
一人一人は違うのだから、たくさんの人みんなといさかいを起こさず仲良くしようと思ったら、
みんながちょっとずつ努力して我慢していかなければならない。
なるべくいろんな意見を認め、無闇に否定せず。
自分の意見があまりにも周りからずれていればひっこめ、必要があれば考えを改め。
自分が誰かを責めたり馬鹿にしたり、みっともない行動に出ることを抑え、
逆に誰かの「嫌な」行動を我慢して黙殺したり、あるいは怒鳴りつけたいところを
至極穏便に注意したり。
そういう「我慢」ができそうになければ、したくなければ、
その集団からは外れるのがお互いのためだろう。
我慢が限界に達した時の壊れ方は…それぞれ違うだろうが、
おもしろいものではないのは確かだ。

楽しく遊ぶために来た場所だ。
これから楽しく遊べなそうなら、居心地が悪そうなら、いる意味はない。

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誰かを恨んでしまったら

その相手がどれだけ自分を恨んでいるか
悔しい思いをしたか 悲しい思いをしたか

想像してごらん

心持ち 優しくなれるから


…優しくなってみても許せないことがあったなら

それが「自分」だ

大切にしても いいんじゃないか?


"一歩"を譲れる余裕が 素敵なことでも
引けない場面があるなら それはきっと正義(justice)

(「SLAYERS 4 the future」より)

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まとまりのない長文です。

どんなに丁寧な言葉で飾りたてても、言っている内容が拒絶なら
ぶっきらぼうに言うよりも感じが悪い。
個人は、企業じゃない。
否定的な内容の文章をわざわざやたらな丁寧語で飾り付ける必要はない。
言葉が丁寧であればあるほど、内容の酷さを必死で隠そうとしているような、
でもそのせいで逆に際だってしまっているような、そんなふうに私は感じる。

嘘をついたり隠し事をしたりするのは嫌い。
だけどいつも正直に思うがままのことを口にしていたら
争い事が起こるばっかり。

嘘をつかず、自分の思うがままに動いて、争い事がおこらず
みんなが幸せでいられたらどんなにいいだろう。

でも、そんな人いない(。。)
孔子は「七十にして心の欲する所に従いて、矩(のり)を踰(こ)えず。」と言ったが
それはアンタのように偉い人だけだろう。
うちには80過ぎてワガママホーダイのおばーちゃんがいる。
要するに、孔子のような偉人だって、やりたいよーにやって
人に迷惑をかけなくなるまで70年かかるのだ。
いわんや常人をや。
ちっちゃい頃から、道徳はオマケで国語算数理科社会大事って教えられて育ってきた若者をや。

誰もが皆、心の中に黒い部分を秘めていて。
それを表に出さずににっこり笑うのが「いい人」。
何も隠さず、嘘も隠し事もせず、「いい人」でいることはできない。
人はみんな、心の中に「汚れ」を持っているのだから。

私は形だけの謝罪はしない。
見せかけだけの反省や償いもしない。

しかしそれは、他の人もそうだとは限らない。
むしろ、「とりあえずあやまっとけ」的な謝り方をする人の方が多いだろう。
その方が、「得」だから。「大人」に見えるから。
そんな謝り方は、言葉のどこかしらに「本気じゃないけどネ」という意志が
見え隠れするのだ。だから俺は嫌い。

だけど私は信じてみよう
あの子の発した言葉のすべてを 謝罪と拒絶の意志を
健やかにおすごしくださいという祈りを

そして否定しよう
「わたしがいない方があなたのためになる」という言葉は。

何があっても他人を悪く言わなかったあの子も。
いつも泣きたい理由を隠して、元気だよーと言っていた。
泣き言は言わない、弱いところは見せない、と言い張って。
だけど気が付けば、泣きたそうなことを日記に書いていた。
それが、あの子の秘めている闇が深いことの現れだと
何故気づけなかったのだろう。
何故、誰のことも悪く思わないよい子だと、信じていられたのだろう。
真っ白な心の人なんて、いるわけがないのに。

必死に隠していたのに、曝いてしまった。
…それは、いけないことだったのだろうか…。
確かに、私の言ったことをその子は受け止めきれず、嫌になり、私は拒絶された。
言葉を飾ってもそれは拒絶の意志のあらわれ。
今まで隠してきた心の中の「汚れ」を曝かれるのは、許し難いことだろう。
そして、他人の「汚れ」を延々と見せつけられることも。

…だけど、君は、いらない子なんかじゃないんだよ。必要なんだ。
黒い面を見せても見せられても、優しい君も本物だもの。
近くに、いてほしいよ…
見限られたら、やさぐれる。人を信じなくなって、他人と距離を置くようになる。
それが「私が良くなる」ということなら…
甘んじて、受け入れよう。君に見限られよう。人を信じなくなろう。

私はある時、ちょっとした事件から、いい人のふりをするのはやめようと思ったんだった。
「ふり」をやめれば、本当の私の姿を知ってなお友達でいてくれる人だけ
ついてきてくれるだろう。
私は、うわべだけのつきあいで作った100の友達より、
本当の自分をさらけ出し合ってできたたった一人の友達の方がいい。

でも…
50人強の多人数が集まる場所で、いい人のフリをやめることはできなかった。
あそこにいたのは偽りの自分。
汚れた心を白く塗り重ねてきた自分。
心の汚れた部分を浄化できず、ただ白を塗り重ねて隠していって。
また汚れたらまた白く塗って。どんどん重たくなる心。
その重さに耐えかねて、私は出てきたのではあるまいか。
様々な事件は、きっかけにすぎない。

あの場所に置いてきた人たち…
彼らの何人が、「本当の自分」を受け入れてくれるだろうか。
「本当の自分」としてあの場所で発言できていたのだろうか。

 雪がはげしく ふりつづける
 雪の白さを こらえながら

 欺きやすい 雪の白さ
 誰もが信じる 雪の白さ
 信じられている雪は せつない

 どこに 純白な心などあろう
 どこに 汚れぬ雪などあろう

 雪がはげしく ふりつづける
 うわべの白さで 輝きながら
 うわべの白さをこらえながら


 (「雪の日に」詩/吉野弘 合唱曲集「心の四季」より)

ちょっと長い引用ですみません( ̄人 ̄)
大学3年の頃にこの歌を歌って、それからずっと、上のようなことを考えていました。
純白な心などないと…それでも白く見せかけねばならないと…
…会ったことがないだけで、わからないだけで、本当はいるのかもしれません。
純白な人。

とりとめがなくなってきたのでこのへんにしときましょう。

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どんなに正しい内容の意見を正しい形式で述べられても
よほど理性的な人間でなければ、感情面で反発していては
その意見を受け入れることはできません。
では、そのような相手に意見を受け入れてもらうにはどうすればよいのでしょうか。

1.感情で訴える
2.反発する感情の発生原因を理解し、それを溶かす方向から説得する
3.1と2の合わせ技

1はお互いに感情的になり、グダグダになる危険性があります。

2は、感情の分析も、その後の説得も、カウンセラーさんでもなければ
難しいのではないでしょうか。

それでも
これらは自分がやってほしいことであり
他人に対してやりたいことでもあります。
人は理屈だけで動くのみにあらず
行動には、元となった感情がある
目的のない知恵は 何も産まない

なんか違うと思うけどインスパイアされたのでトラックバックです。
[意見と感想(1)](from雑記帳

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何か良くないことが起こった時、誰かのせいにして終わらせれば
自分は何も苦しい想いをしなくてもいいだろう。
しかし、それは実はその「誰か」のせいではなく、自分のせいであったのなら、
自分は何も成長しないし、責任を押しつけられた誰かも理不尽に感じて反発してケンカになったり
あー何もかも俺が悪いんだー_| ̄|○と落ち込んでしまったりするだろう。

だから私は、まず自分を責める。
可能な限り己の責任を追及し、悪かったことは悪かったと反省して次回に生かし。
悪いことの発端が他人にあったとしても、それがよっぽどやってはいけない行動では
なかったなら、自分のフォローが足りなかったのだと反省する。
時には自虐のいきすぎに見えるかもしれない。
いや、本当は他人を責めたいのに自虐に置き換えているように
見えることもあるかもしれない。

でも私は、形だけの謝罪はしない。
いけないことをしていないと思ったら、見せかけだけの反省や償いもしない。

自分を責めて責めて
自分のした悪いことを反省して反省して
謝罪して謝って罪を犯したと認めて
それでも
事の発端が自分のせいではなく、誰かのせいであり。
自分は悪いことをしたけど、その原因を作ったのは「誰か」であった場合。
その「誰か」がやった行動は、やってはいけないひどいことだった場合。
自虐だけで終わらせることは…できないのです。やりたくないのです。
俺がこんだけあやまってんのに何アンタ涼しい顔してんねん、と。

その「誰か」に謝罪を求めたくなる気持ち。
謝罪や反省をされないと納得しきれないこの気持ち。
もよもよ。もよもよ。
こんな黒い感情は いらないのに。

ファリスよ。
黒い感情を抱くことなどない、白い心を。
マーファよ。
何でも許すことができる慈悲を。
チャ・ザよ。
他人との交流のしかたを。
ラーダよ。
相手を説得するための知恵と知識を。
マイリーよ。
戦う勇気を。
ガネードよ。
小手先の技を。
ブラキよ。
心も体も鍛えてくださる試練を。
ヴェーナーよ。
目の前で起こった出来事を美しく語り、運命を変える力を。

ファラリスよ。
遠慮せずに己の為したいように為す勇気を。
カーディスよ。
すべてぶちこわしてしまう大義名分を。
名も無き狂気の神よ。
いっそ気が触れて意味不明な言動ばかりしても恥じることもない世界へ。
ひきずりこんでください。
最後には。

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